『猿の惑星:聖戦記』レビュー 物語が峻烈に終わり、そして始まる

遂に三部作が終了しました。
1968年「猿の惑星」の前日譚となる三部作は神話を思わせる峻烈な物語になっていました。

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猿の惑星:聖戦記」WEB予告映像より引用
(C)2017 Twentieth Century Fox Film Corporation

 1968年「猿の惑星」は既に地球が猿に支配されていましたが、「創世記」からなる新三部作は地球が如何にして支配されるに至ったかを描いています。

ネタバレがあるのでご注意ください。

もはや猿神話

新三部作ではシーザーという一匹の猿を主軸に物語が展開していきました。
猿同士の対立で人間同士との戦争が勃発し幕を閉じたのが前作「新世紀」でした。

「聖戦記」では人間と猿との戦争が激化しているという始まりです。
シーザーたちは仲間や家族を愛し、人間は全て悪ではないということを理解しています。
しかし、人間との戦いによりシーザーの心は闇が支配していく…。

一方の人間は猿の殲滅を目的としているのですが、一致団結しているわけでもなく、人間は人間で様々な軋轢を抱えています。

人間の蛮行から猿たちを救うために活躍するシーザーですが、人間に捕まり磔にされるなど、その姿はどこか聖書の一節めいた雰囲気を感じさせキリストを思わせるほどです。

仲間と家族のために身を挺してゆき、自分が傷つくことすら厭わない姿はまさに英雄。

もはやこれは猿神話というべき仕上がりになっています。
猿たちの歴史書には必ずシーザーの名が刻まれている事でしょう。それほどの壮絶な神聖さがシーザーから醸し出されていたのです。

獣はどっち?

人間は自分たちを幸福にするはずだった薬によって不幸へと突き進ました。一方で猿たちはその薬によって高い知性を得、地球の新たな支配者になり変わろうとしています。

人間の発明は皮肉なことに不幸と新支配者を生み出したのです。
人間の横暴さに対する警鐘とも言えますね。

猿の殲滅をもくろむ人間たちは一枚岩ではなく、対立している有様。
いがみ合ってい、そして命を奪うっているのです…。

シーザーは猿たちのために戦い、人間同士は争う。はたして野蛮な獣はどちらなのか、とこの作品は提示してきているのでしょう。

人間とは何か、獣とは何か、哲学的な問いが観客に突き付けられているのです。

境界を破壊するビジュアル

シーザーの英雄さに真実味を与えているのが現実と見まがうCG技術です。どこからが実写でどこからかCGなのか完全に見分けがつかないほどのリアリズム。
確かに猿たちはその世界に存在している、と強く印象付けられます。

圧倒的な技術により、作品が持つ力を格段に押し上げているのです。これが本作を神話へと昇華させる説得力を与えてます。
現実と虚構の境界を猛烈なまでの勢いで破壊してきました。この映像技術を見るだけでも価値があると言えるでしょう。

峻烈に物語が終わりました。しかしこれは始まりでもあるのです。この神話は必見です!